Vinyl Record Reviews
Marvin Gaye(マーヴィン・ゲイ、本名Marvin Pentz Gay Jr.)は、1939年4月2日にワシントンD.C.で生まれ、1984年4月1日にロサンゼルスで悲劇的な最期を遂げたアメリカのシンガーソングライター、マルチ楽器奏者、音楽プロデューサーだ。3オクターブに及ぶ艶やかな声域と多重録音によるシルキーなコーラスワークを武器に、1960年代のモータウン黄金期を牽引する大スターとして君臨した。さらに1971年の歴史的傑作『What's Going On』では、黒人音楽をシングル中心のエンターテインメントからアルバム単位の崇高な社会派総合芸術へと進化させ、続く『Let's Get It On』や復帰作「Sexual Healing」では官能美の極致を開拓した。1987年にロックの殿堂入りを果たし、ソウル/R&B史における不滅の巨人として讃えられている。
マーヴィン・ゲイは、厳格なペンテコステ派教会(House of God)の牧師であった父マーヴィン・シニアの家庭で育った。幼少期から父親による執拗な家庭内暴力と精神的虐待に苦しめられたマーヴィンにとって、教会でのゴスペル斉唱とピアノ演奏だけが唯一の心の拠り所であった。高校時代にドゥーワップ・グループを結成し、空軍除隊後の1950年代末にはハーヴェイ・フークワ率いる名門「ザ・ムーングロウズ(The Moonglows)」に加入してプロのキャリアをスタートさせた。この頃、父との複雑な確執やからかいを避けるため、尊敬するサム・クックに倣って姓の末尾に「e」を付加し「Gaye」と改名した。
1960年にムーングロウズが解散すると、デトロイトでモータウンの創業者ベリー・ゴーディ・ジュニアに見出され、傘下のタムラ・レコードと契約。当初はナット・キング・コールやフランク・シナトラのようなジャズ/ポップスのスタンダード・クルーナーを志向していた。卓越したドラマーでもあった彼は、マーヴェレッツの全米1位曲「Please Mr. Postman」や初期スティーヴィー・ワンダーのセッションでドラムを担当し、スタジオの現場で音楽制作の土台を築いた。1963年にはベリー・ゴーディの姉であるアンナ・ゴーディと結婚した。
1962年の「Stubborn Kind of Fellow」を足がかりに、「Hitch Hike」「Pride and Joy」「Can I Get a Witness」「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」など、モータウンを代表するダンサブルで都会的なR&Bヒットを連発。「プリンス・オブ・モータウン」の異名をとるトップスターへと上り詰めた。1968年にはノーマン・ホイットフィールド制作の「I Heard It Through the Grapevine(悲しいうわさ)」が米Billboard Hot 100で7週連続1位を記録し、当時のモータウン史上最大の世界的ヒットとなった。
ソロと並行してデュエットの名手としても人気を博し、メアリー・ウェルズやキム・ウェストン(「It Takes Two」)と共演。とりわけ1967年から始まったタミー・テレル(Tammi Terrell)とのコンビネーションは伝説となった。名ソングライター・チームのアシュフォード&シンプソンが手掛けた「Ain't No Mountain High Enough」「Your Precious Love」「Ain't Nothing Like the Real Thing」「You're All I Need to Get By」など、魂の通い合う名曲を次々と生み出した。
しかし1967年10月、バージニア州でのコンサート中にテレルがマーヴィンの腕の中で突然倒れ、悪性脳腫瘍と診断された。闘病の末に1970年3月、テレルが24歳の若さで病没すると、マーヴィンは計り知れない喪失感と鬱病に打ちひしがれ、公の場から姿を消した。一時はプロ・フットボールNFLのデトロイト・ライオンズのトライアウトを受けるなど、深い苦悩と混迷の時期を過ごした。
ベトナム戦争に従軍していた実弟フランキー・ゲイから送られた凄惨な戦場の便りや、カリフォルニア州バークレーでの反戦デモに対する警察の暴力(血の木曜日)に強い衝撃を受けたマーヴィンは、フォー・トップスのアンドレ・クリーブランドとオビー・ベンソンから持ち込まれた楽曲「What's Going On」に自らの魂を投影した。
しかしベリー・ゴーディ・ジュニアは「政治的すぎてヒットせず、キャリアを破壊する」「人生で聴いた最悪の曲」と激怒し、シングル発売を頑なに拒絶。これに対しマーヴィンは「この曲を出さないなら二度とモータウンで歌わない」とレコーディングを全面拒否するストライキに突入した。1971年1月、ゴーディの留守中に幹部ハリー・バークの手によってシングルが強行リリースされると、瞬く間にモータウン史上最速のペースで売れ、全米ポップ・チャート2位、R&Bチャート1位を記録。ゴーディは態度を一変させ、マーヴィンに完全な創作の自由を与えた。
1971年3月、デトロイトのヒッツヴィルU.S.A.にて、ザ・ファンク・ブラザーズのグルーヴ、デトロイト交響楽団の弦楽アンサンブル、デヴィッド・ヴァン・ディピティの編曲のもと、わずか10日間で全編の録音を完了。同年5月に発表された『What's Going On』は、全曲がメドレーのように途切れなく流れるソウル史初の本格的コンセプト・アルバムとなった。反戦、人種差別、貧困、環境破壊(「Mercy Mercy Me (The Ecology)」)、都市スラムの荒廃(「Inner City Blues」)をジャズとゴスペルが交錯する祈りのサウンドで包み込んだ本作は、黒人音楽のあり方を決定的に変革した。米『ローリング・ストーン』誌は2020年の「史上最高のアルバム500選」において本作を歴代第1位に選出している。
社会派の頂点を極めたのち、マーヴィンは内面的な欲望と霊的な愛の合一へと創作の舵を切った。1973年、エド・タウンゼントとの共作による『Let's Get It On』を発表。当時スタジオを訪れた17歳のジャニス・ハンター(後の再婚相手)への激しい情熱が投影された表題曲は全米1位を記録し、後のクワイエット・ストームやスロウ・ジャムの決定的な源流となった。同年のダイアナ・ロスとの共演盤『Diana & Marvin』も大きな成功を収めた。
1976年にはレオン・ウェアがプロデュースを手掛けた官能的メロウ・ソウルの傑作『I Want You』をリリース。しかし私生活ではアンナ・ゴーディとの泥沼の離婚裁判に直面し、莫大な慰謝料と未払い税金のため、裁判官から「次回作の前払金と印税の半分をアンナに支払う」命令を下された。これを受けて制作された2枚組アルバム『Here, My Dear(離婚伝説)』(1978年)は、2人の結婚生活の破綻と葛藤を生々しく綴った極めて私的な告白録であった。発表当時は商業的失敗とされたが、現在では最も痛切で率直な芸術的ドキュメントとして再評価されている。
深刻なコカイン中毒と巨額の負債に追い詰められたマーヴィンは、ハワイからロンドンへと移住。1981年、モータウンが未完成の音源を無断で編集・発売した『In Our Lifetime』をめぐり決定的に対立し、20年以上在籍したレーベルから離脱した。
ベルギーの港町オーステンデに身を寄せたマーヴィンは、地元のプロモーターであるフレディ・クーサールらの献身的な支援を受け、海の空気とボクシング・トレーニングによって心身の健康を回復させた。コロンビア・レコードと契約を結び、Roland TR-808のリズム・マシンを大胆に導入した復帰作『Midnight Love』(1982年)を発表。リード曲「Sexual Healing」は全米R&Bチャート10週連続1位、Billboard Hot 100で3位を記録する世界的メガヒットとなり、グラミー賞2部門を獲得。1983年のNBAオールスター・ゲームにおける、808のミニマルなビートに乗せた伝説的な国歌斉唱パフォーマンスは全米を熱狂させた。
劇的な復活を遂げたマーヴィンであったが、ツアー終了後は深刻な被害妄想とうつ症状、コカイン依存が再発。ロサンゼルスの両親の邸宅で過ごしていた1984年4月1日、両親の激しい諍いを仲裁しようとした際、父マーヴィン・シニアとの口論に発展し、至近距離から胸を撃たれて即死した。凶器となった銃は、前年のクリスマスに護身用としてマーヴィン自身が父に贈ったものであった。45歳の誕生日前日に起きたこの悲劇は世界中に深い悲哀を与えた。
1987年にロックの殿堂入り、1996年にはグラミー生涯功労賞を受賞。スティーヴィー・ワンダーとともに、レコード会社主導の体制に抗してアーティストが自らの表現を完全にコントロールする道を切り拓いた功績は計り知れない。多重録音による重層的な自己ハーモニー、シルキーなファルセットと切迫したシャウト、社会的メッセージと官能性の融合は、プリンス、ディアンジェロ、エリカ・バドゥ、マックスウェルらネオ・ソウル、そして数多くのヒップホップ・アーティストへと永遠に受け継がれている。