Vinyl Record Reviews
Echo & The Bunnymenは、1978年にリヴァプールで結成されたロック・バンドだ。中心になったのはイアン・マッカロク(ボーカル/ギター)、ウィル・サージャント(ギター)、レス・パティンソン(ベース)で、のちにドラムマシンの代わりとしてピート・デ・フレイタス(ドラム)が加入した。
バンド名の由来については、結成当初に使っていたドラムマシンが「Echo」だったという見方が広まったが、バンド側はそれを否定している。サージャントは後年、この名前は友人が出した候補のひとつで、ほかの候補と同じくらいばかげていると思ったと語っている。
マッカロクは1977年、ジュリアン・コープ、ピート・ワイリーと「Crucial Three」という短命のバンドを組んでいた。ワイリーが抜けると、マッカロクとコープはA Shallow Madnessを結成し、これがのちのThe Teardrop Explodesになる。マッカロクはそこを離れ、1978年にサージャント、パティンソンとEcho & The Bunnymenを始める。最初はドラマー不在で、ドラムマシンを使っていた。
初ライブは1978年11月、リヴァプールのクラブEric'sで、The Teardrop Explodesの前座だった。この時点で、のちの「Monkeys」を当時の題名「I Bagsy Yours」として20分ほど演奏したという。1979年5月にはBill DrummondとDavid BalfeのZoo Recordsからデビュー・シングル「The Pictures on My Wall」を発表し、同年8月22日にはジョン・ピールの番組で、計6回となるセッションの最初の録音を行っている。
1979年9月15日、トリニダード生まれのドラマー、ピート・デ・フレイタスがEric'sでバンドと出会い、その場で加入してドラムマシンに代わった。ただし、10月12日にロンドンのElectric Ballroomで行われたMadnessとBad Mannersの前座公演では、これが彼の初ライブだったが、バンドは2曲でブーイングを受けて退場している。
1980年7月のデビュー作『Crocodiles』は全英17位を記録した。ジャケットはBrian Griffinによるもので、自然の要素をテーマにした一連のビジュアルの始まりになった。1981年1月17日には、招待した約500人のファンを前にバクストンのPavilion Gardensで撮影したアート作品風のライブ映画『Shine So Hard』を制作し、付随するEPが全英37位と初の英国ヒットになった。
同じく1981年の『Heaven Up Here』はウェールズのRockfield Studiosで録音され、全英10位を記録した。Rolling Stoneは1981年7月に、彼らを「ビートルズ以来リヴァプールから出てきた最高のバンド」と評した。
3作目『Porcupine』では、最初の録音がWarner側に「商業的でなさすぎる」と判断され、録り直しになった。インドのヴァイオリン奏者Shankarが弦を加えている。シングル「The Back of Love」は初の全英トップ20入りとなる19位、「The Cutter」は全英8位まで上昇し、アルバム『Porcupine』自体は全英2位を記録した。
1984年1月に出た「The Killing Moon」は全英9位だった。マッカロクは、歌詞はある朝に一気に浮かんだもので、自分が意図して書けたとは思えないから半分は神のおかげだと話している。コード進行はDavid Bowieの「Space Oddity」を逆にたどったものとされ、パティンソンとサージャントがロシアで聴いたバラライカ音楽も編曲の参考になった。ギター・ソロは、チューニング中にサージャントが弾いたフレーズをプロデューサーのDavid Lordが採用したものだ。マッカロクは「『The Killing Moon』を歌うとき、これに近い曲を持っているバンドは世界中どこにもいないとわかる」と語っている。
同年5月にリリースされた『Ocean Rain』は、パリのStudio des DamesとStudio Davoutを中心に、35人編成のオーケストラを使って録音された。弦のアレンジやチェロ、ピアノはAdam Petersが担当している。「史上最高のアルバム」という宣伝文句は、マッカロクがWarnerの社長Rob Dickinsとの電話で冗談で言ったことを、Dickinsがそのままポスターに使ったものだった。全英4位を記録し、26週チャートに残った。全米でも87位に入った。
マネージャーのBill Drummondは風変わりな企画でも知られ、1984年5月12日にはリヴァプールで「A Crystal Day」を開いた。ファンは朝食付きのスタンプ・ラリーに始まり、マージー川のフェリー(配られたバナナで投げ合いになった)、サージャントとパティンソンが先導して街をバンドのウサギのロゴの形になぞる自転車行進、大聖堂でのオルガンと聖歌隊の演奏を経て、夜にはセント・ジョージズ・ホールで約3,500人を前に3時間の公演を観た。バンドは、ここで演奏したのはThe Beatlesの1961年以来だと主張した。Drummondは、ツアーの道筋を、アイスランドからヘブリディーズ諸島を経てリヴァプールのマシュー・ストリートへ流れるというレイラインに沿わせる構想も持っていた。1984年末、稼ぎが足りないと感じたバンドはDrummondと別れた。
1985年以降はメンバーの動きが不安定になる。ニューオーリンズでの大晦日の騒ぎの後、デ・フレイタスが一時離脱し、ドラマーは代役が務めた。1987年の『Echo & the Bunnymen』は全英4位を記録し、アメリカでもある程度の売上を残したが、バンド自身はミックスとプロダクションを好まなかったという。
これがオリジナル編成で作った最後のアルバムになった。1988年4月の日本ツアー後、マッカロクが脱退を表明し、9月にバンドを離れる。後任ボーカルにはNoel Burkeが入ったが、1989年6月14日、デ・フレイタスはBurkeとの最初のリハーサルに向かう途中、スタッフォードシャーでオートバイ事故に遭い、27歳で亡くなった。Geoff Emerickがプロデュースした1990年の『Reverberation』は売れず、Warnerとの契約も失った。バンドは1993年に解散している。
1994年からはマッカロクとサージャントがElectrafixionとして活動し、1997年にパティンソンを加えてEcho & The Bunnymenの名前を復活させた。再結成後の『Evergreen』は全英8位を記録している。
同作のシングル「Nothing Lasts Forever」には、近くのスタジオで『Be Here Now』を録音していたOasisのリアム・ギャラガーがタンバリンとバック・ヴォーカルで参加した。マッカロクは「リアムはぴたりと決めて、あの曲を本当に素晴らしくしてくれた」と言い、この曲を「僕がこれまでに書いた中でいちばん大事な曲」と呼んでいる。
その後もバンドは、マッカロクとサージャントを軸に『Flowers』(2001年)、『Siberia』(2005年)、『The Fountain』(2009年)、『Meteorites』(2014年)、『The Stars, the Oceans & the Moon』(2018年)を発表している。2026年には新作『Apples for Isaac』が予告され、「Brussels is Haunted」が先行シングルとして出ている。
2002年にはQ誌のインスピレーション賞を受賞している。影響の話では、Coldplayのクリス・マーティンが「In My Place」のボーカル録音時にマッカロクのコートを着ていたと明かしている。その場にいたマッカロクは、赤ワインを飲みながら「行け、坊主、行け」と励ましていたという。
「The Killing Moon」は映画『ドニー・ダーコ』の冒頭で使われ、Pavementによるカバーもある。