Nick Drake

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Nick Drake

Nick Drake(ニック・ドレイク)とは

Nick Drake(ニック・ドレイク/本名:Nicholas Rodney Drake)は、1948年6月19日生まれ、1974年11月25日に26歳の若さで没したイギリスのシンガーソングライター、アコースティック・ギタリストである。生前に残したスタジオアルバムは『Five Leaves Left』(1969年)、『Bryter Layter』(1970年)、『Pink Moon』(1972年)のわずか3作のみであった。

ささやくように親密なバリトン・ボイス、変則チューニングを駆使した比類なきフィンガーピッキング奏法、そして英国の田園風景や孤独、実存的な憂鬱を湛えた詩世界は、発売当時は商業的にほとんど省みられなかった。しかし死後数十年の歳月を経て奇跡的な再評価が進み、現在ではサンディ・デニーやジョン・マーティンらと並ぶ英国フォーク/シンガーソングライター界屈指の孤高の天才として、世界中で絶大な敬愛と神話的評価を集めている。

ケンブリッジでの日々、ジョー・ボイドとの出会いと『Five Leaves Left』

英領ビルマ(現ミャンマー)のラングーンで英国人エンジニアの父と詩作やピアノを嗜む母のもとに生まれたドレイクは、幼少期にイングランド・ウォリックシャー州タンワース・イン・アーデンの自然豊かな村へと移住した。パブリックスクールを経てケンブリッジ大学フィッツウィリアム・カレッジで英文学を専攻する傍ら、アコースティック・ギターに没頭し、ロンドンのフォーククラブで弾き語りを始める。

その演奏を目撃したフェアポート・コンヴェンションのベーシスト、アシュリー・ハッチングスの仲介により、アイランド・レコーズ傘下のウィッチシーズン・プロダクションを率いる名プロデューサー、ジョー・ボイドと出会う。ボイドは20歳だったドレイクの非凡な才能を即座に見抜き、即座にレコード契約を結んだ。

1969年に発表されたデビュー作『Five Leaves Left』は、サウンド・テクニクス・スタジオでエンジニアのジョン・ウッドとともに録音された。ドレイクの大学時代の学友ロバート・カービーによる端正な室内楽的ストリングス編曲、ペンタングルの名手ダニー・トンプソンのウッドベース、リチャード・トンプソンのエレクトリック・ギターが融合し、「Time Has Told Me」や5拍子の変拍子を取り入れた名曲「River Man」など、英国トラッドとジャズ、ドビュッシーやラヴェルに通じるフランス近代印象派の響きが交錯する幽玄な音世界を創り上げた。

都会の洗練と孤独の狭間:『Bryter Layter』

大学を中退してロンドンへ拠点を移したドレイクは、より商業的な成功と大衆へのアプローチを意図したセカンドアルバム『Bryter Layter』(1970年)の制作に入る。プロデューサーのボイドはフェアポート・コンヴェンションのリズム隊(デイヴ・マタックス、デイヴ・ペグ)やサックス奏者のレイ・ウォーリーを起用し、さらに元ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルが「Northern Sky」と「Fly」でチェレスタやピアノ、オルガンを演奏するなど、洗練されたジャズ/ポップ寄りのアンサンブルを構築した。

完成した作品はポップ史上に残る瑞々しい名曲群を含んでいたが、セールス的には前作同様に惨敗した。極度の内向性と舞台恐怖症を抱えていたドレイクは、ステージ上での演奏やプロモーション用のインタビューに応じることを激しく嫌い、大衆との断絶を深めていった。失意のなかで重度のうつ病に苛まれた彼は、ロンドンの都会生活を引き払い、タンワース・イン・アーデンの両親の家へと引きこもるようになる。

究極の剥き出しの詩情:『Pink Moon』の孤高の輝き

1971年10月、ドレイクはジョン・ウッドに直接連絡を取り、深夜のサウンド・テクニクス・スタジオへ一人で現れた。ストリングスもゲスト・ミュージシャンも一切排除し、アコースティック・ギター(マーティンD-28)の弾き語りのみ、わずか2晩のセッションで録音されたのがサードアルバム『Pink Moon』(1972年)である。タイトル曲で薄くダビングされたピアノ以外、オーバーダビングは一切存在しない。

収録時間わずか28分。虚飾を完全に削ぎ落とした静寂のなかで、ドレイクの爪弾くアコースティック・ギターと枯れた歌声だけが響く本作は、人間存在の根源的な孤独と儚さを描いた純度100パーセントの芸術的到達点となった。録音後、ドレイクはマスターテープの入った箱をアイランド・レコーズの受付デスクに無言で置き去りにして去ったという逸話は、彼の孤高のスタンスを物語る伝説として知られている。

失意と26歳の早すぎる死

『Pink Moon』発表後、ドレイクの精神状態はさらに悪化の一途をたどった。処方された抗うつ薬(アミトリプチリン)を服用しながら外部との接触をほとんど絶ち、隠遁生活を送る。1974年7月、ジョン・ウッドとともに最後の4曲(「Black Eyed Dog」など)を録音したものの、本格的な復帰には至らなかった。

1974年11月25日の朝、タンワース・イン・アーデンの自宅の自室で、ドレイクは抗うつ薬の過剰摂取により26歳で息を引き取っているのが発見された。検死では自殺と断定されたが、家族や関係者の間では薬の誤飲による事故死ではないかという見解も根強く残されている。生前、彼の3枚のアルバムが合計で売れた枚数はわずか数千枚に過ぎなかった。

ギタリストとしての革新性と「ドレイク・チューニング」

ニック・ドレイクは卓越した詩人・シンガーであったと同時に、アコースティック・ギターの歴史上屈指の革新的な技巧派ギタリストでもあった。彼は「BEBEBE」「CGCFCE」「BBDGBE」といった極めて特異なオープン・チューニングや変則チューニングを独自に開発し、豊かな開放弦の倍音や不協和音スラー、クラシカルなクラスター和音を紡ぎ出した。

さらに親指で複雑なポリリズムを刻みながら、人差し指と中指でシンコペーションする対旋律を同時に弾きこなすそのピッキングは、まるで複数のギターが同時に鳴っているかのような錯覚をもたらす。この高度なギター・アプローチは、後世のフィンガースタイル・ギタリストたちにとって尽きない研究の対象となっている。

死後25年の奇跡的再評価と後世への絶大なる影響

ドレイクの音楽は、1979年のボックスセット『Fruit Tree』や心ある批評家、ミュージシャンたちの口コミによって静かに語り継がれていた。ザ・キュアーのロバート・スミスは「Time Has Told Me」の一節("A troubled cure for a troubled mind")からバンド名を命名したと公言しており、R.E.M.のピーター・バック、ケイト・ブッシュ、ポール・ウェラー、エリオット・スミス、ベック、レディオヘッド、ノラ・ジョーンズら、世代とジャンルを超えた無数のトップアーティストたちが彼からの決定的な影響を告白している。

決定的な契機となったのは、1999年末に放映されたフォルクスワーゲン・カブリオレのテレビCMである。満天の星空のもとを走る映像のBGMに「Pink Moon」が起用されると、世界中から問い合わせが殺到。アルバムは死後25年を経て各国のチャートを駆け上がり、アマゾンのセールスランキングで首位を獲得するという前代未聞の社会現象を引き起こした。時代や流行の趨勢とは無縁の場所で紡がれたその繊細な音楽は、現代を生きる人々の孤独と魂に寄り添う不滅のクラシックとして、今なお世界中で新しい聴き手を惹きつけ続けている。

ジャンル・スタイル

Folk, World, & Country Rock Acoustic Folk Folk Rock
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