Vinyl Record Reviews
The Ramones(ラモーンズ)は、1974年にアメリカ・ニューヨーク市クイーンズ区フォレストヒルズで結成された、パンク・ロックの創始者として歴史に名を刻む伝説的バンドだ。黒の革ジャン、破れたブルージーンズ、スニーカーという統一されたスタイルをまとい、ギターソロを完全に排除した猛烈なダウンピッキングのコードストロークと、全曲2分前後の無駄を削ぎ落とした楽曲群でロック界の勢力図を根底から覆した。
Joey Ramone(Jeffrey Hyman)、Johnny Ramone(John Cummings)、Dee Dee Ramone(Douglas Colvin)、Tommy Ramone(Tom Erdelyi)の4人によって始動。血縁関係は一切ないものの、全員が「ラモーン」姓を名乗る架空の兄弟として活動した。22年間にわたり一度も長期活動休止を挟むことなく通算2,263回もの過酷なライブを敢行。在活動中にアメリカ本国で商業的メガヒットを記録することはなかったが、その音楽と美学は世界中のロック・シーンに計り知れない影響を与え続けている。
バンドの結成は1974年初頭、クイーンズ区フォレストヒルズの高校時代の仲間たちによって始まった。バンド名とメンバー全員が共有する姓「Ramone」は、Paul McCartneyがThe Beatles以前(The Silver Beetles時代)にホテルの偽名として使っていた「Paul Ramon」から着想を得たものだ。Dee Deeがこれを気に入って自らを「Dee Dee Ramone」と名乗り、他のメンバーにもラモーン姓を名乗るよう提案した。
結成当初はDee Deeがギター兼ボーカル、Johnnyがギター、Joeyがドラムスを担当していた。しかしDee Deeが歌いながらベースを弾くことができなかったため、Joeyが専任リードボーカルへ転向。Dee Deeはトレードマークとなる高速のカウント「1-2-3-4!」のシャウトに専念することになる。さらにJoeyもドラムを叩きながら歌うことが困難となりドラマーを探したが、リハーサルで理想のビートを実演してみせたマネージャー志望のTommyのドラミングが最も優れていたため、Tommyが正式ドラマーとして迎えられた。
1974年3月30日に初ライブを行い、同年8月16日にマンハッタン・バワリーのライブハウス「CBGB」に初出演を果たす。MCも挟まず、曲間なしで1曲2分足らずの短い楽曲を猛スピードで連射する彼らのステージは、当時の長大なギターソロや過剰なプロデュースに飽き飽きしていた若者たちに決定的な衝撃を与えた。のちに雑誌『Punk』を創刊するLegs McNeilは「彼らは黒い革ジャンを着て、曲のカウントが始まると凄まじい音の壁が押し寄せてきた。彼らはヒッピーではなかった。完全に新しい何かだった」と回想している。CBGBで年間74回ものステージを重ねてシーンの顔となり、1975年末にSire RecordsのSeymour Steinと契約を結んだ。
1976年2月、わずか約6,400ドルの超低予算、わずか1週間あまりの期間で録音されたデビュー・アルバム『Ramones(邦題:ラモーンズの激情)』を発表。ジャケット写真は『Punk』誌のRoberta Bayleyが撮影したレンガ塀の前の4人の立ち姿で、ロック史上最もアイコニックなヴィジュアルの一つとなった。「Blitzkrieg Bop」(「Hey! Ho! Let's Go!」の掛け声)、「Beat on the Brat」、「Judy Is a Punk」、「I Wanna Be Your Boyfriend」など全14曲を収録し、最長曲でも2分半程度というミニマリズムを徹底。全米アルバムチャートでは最高111位にとどまったものの、ロック評論家からは「ロックンロールの純粋な衝動を取り戻した」と絶賛された。
最大の歴史的転機となったのが、1976年7月4日、アメリカ建国200周年記念日に行われたロンドンのラウンドハウス公演だ。The Flamin' Grooviesのサポートとして渡英した彼らの演奏は、イギリスの音楽シーンに激震を走らせた。翌夜のクラブ公演にはThe Sex PistolsやThe Clash、The Damnedのメンバーが駆けつけた。The ClashのPaul Simononが「僕らはまだ練習不足で人前で演奏できない」と口にした際、Johnny Ramoneが「俺たちを見てみろよ。下手くそで演奏なんてできやしない。ただ飛び出して演奏すればいいんだ」と背中を押した逸話は広く知られている。Generation XのTony Jamesが「あのファースト・アルバムを聴いた日、誰もがギアを3段上げた」と語った通り、彼らの出現が英国パンク・ムーヴメントの決定的な起爆剤となった。
1977年には2作目『Leave Home』(名曲「Pinhead」の「Gabba gabba hey!」チャントを収録)と3作目『Rocket to Russia』(「Sheena Is a Punk Rocker」「Rockaway Beach」を収録し全米49位を記録)を連続リリース。同年大晦日にロンドンのレインボー・シアターで行われた猛烈なパフォーマンスは、パンク史に残る名ライブ盤『It's Alive』に記録されている。
過酷を極めるツアー生活に肉体的・精神的な限界を迎えたTommy Ramoneは、1978年初頭にドラマーを引退し、以降はプロデューサー/制作陣としてバンドを支える道を選んだ(本名のErdelyi名義)。後任ドラマーとしてRichard Hell and the Voidoids出身のMarky Ramone(Marc Bell)が加入。同年、アコースティック・ギターの導入や名曲「I Wanna Be Sedated」を含む4作目『Road to Ruin』を発表した。
1979年にはRoger Corman製作のカルト青春映画『ロックンロール・ハイスクール(Rock 'n' Roll High School)』に本人役で出演し、映画の世界でも異彩を放つ。
1980年、バンドは念願のラジオ・ヒットを狙い、伝説的プロデューサーのPhil Spectorを迎えて5作目『End of the Century』を制作した。ロサンゼルスのスタジオでは、偏執狂的なSpectorが銃を突きつけて同じギターコードを何時間も弾かせ続けたという真偽入り混じる逸話が残る。全米44位・全英14位と商業的にはバンド史上最高のチャート成績を収め、The Ronettesのカバー「Baby, I Love You」は全英8位の大ヒットとなったが、ギタリストのJohnny Ramoneは「これは薄められたラモーンズであり、本来のラモーンズの姿ではない」と不満を隠さなかった。
1981年の『Pleasant Dreams』(10ccのGraham Gouldmanプロデュース)、1983年の『Subterranean Jungle』とアルバムを発表し続けるものの、アメリカの商業ラジオ局でのエアプレイ獲得には苦戦が続いた。
ラモーンズの活動の裏側では、メンバー間の深刻な対立が常に渦巻いていた。Joeyが反戦や人権を重んじる熱烈なリベラル派だったのに対し、軍学校出身のJohnnyは厳格な自己規律と保守・共和党支持を貫き、思想的にも性格的にも対極にあった。さらに1980年代初頭、Joeyの交際相手だった女性Linda DanielleをJohnnyが奪う形で交際・結婚したことで、二人の関係は決定的に破綻。以後の解散に至るまで、二人はバンド活動をプロとして継続させながらも、私的な会話を一切交わさない冷戦状態が続いた(名曲「The KKK Took My Baby Away」はこの出来事へのJoeyの憤りが込められていると語り継がれている)。
1983年、重度のアルコール依存症に陥っていたMarkyが解雇され、Richie Ramone(Richard Reinhardt)が加入。Richieは抜群の演奏力に加え、ドラマーとして唯一リードボーカルを担当し、代表曲「Somebody Put Something in My Drink」を作曲するなど、停滞しかけていたバンドに力強い息吹を取り戻させた(1984年の原点回帰作『Too Tough to Die』)。1985年にはRonald Reagan大統領の西ドイツ軍(ナチス武装親衛隊が埋葬されたビットブルク墓地)訪問に抗議する痛烈なポリティカル・ナンバー「Bonzo Goes to Bitburg」(アルバム『Animal Boy』収録)を発表した。
1987年、Tシャツ等のグッズ売上配分を巡るJohnnyとの確執からRichieが脱退。元BlondieのClem Burkeが「Elvis Ramone」として急遽代役を務めるも、テンポについていけずわずか2回のライブで解雇され、アルコールを断ったMarkyが復帰した。さらに1989年、長年双極性障害と深刻なヘロイン中毒を抱えながら大半の楽曲を作詞・作曲してきた精神的支柱、Dee Dee Ramoneが『Brain Drain』(映画『ペット・セメタリー』主題歌「Pet Sematary」収録)のツアー後に脱退(一時「Dee Dee King」名義でラップに挑むなど迷走を見せた)。後任として海兵隊出身の若き熱狂的ファンだったC. J. Ramone(Christopher Ward)が加わり、若々しいアグレッシブな演奏でバンドの屋台骨を支えた。
1990年代に入ると、Nirvanaのブレイクを皮切りとするオルタナティブ・ロック/グランジの爆発により、ラモーンズは「オルタナ/パンク世代の生ける伝説」として再評価の波に包まれる。Sire Recordsとの長期契約を満了後、Radioactive Recordsへ移籍して『Mondo Bizarro』(1992年、「Poison Heart」収録、ブラジルでバンド初のゴールドディスク認定を獲得)を発表。1993年には人気アニメ『The Simpsons』にゲスト出演を果たした。
1995年、通算14作目のスタジオ・アルバム『¡Adios Amigos!』を発表し、翌年の解散を正式にアナウンス。1996年夏にはオルタナティブ・ロックの巨大フェス「Lollapalooza」にメインアクトとして参加し、彼らを神と崇める全米の新たな若い世代の大観衆を熱狂させた。
そして1996年8月6日、ロサンゼルスのザ・パレスで通算2,263回目となるフェアウェル・コンサートを開催(ライブ盤『We're Outta Here!』に収録)。脱退していたDee Deeの飛び入りをはじめ、MotörheadのLemmy、Pearl JamのEddie Vedder、SoundgardenのChris Cornell、Rancidのメンバーら錚々たる盟友たちがステージに集結し、22年間にわたるノンストップの激走に幕を下ろした。
解散後、バンドの歴史は早すぎる別れの連続となった。1999年7月20日、ニューヨークのヴァージン・メガストアでのサイン会でオリジナル・メンバー4人が一堂に会したが、これが4人揃って公の場に姿を現した最後の瞬間となった。2001年4月15日、長年闘病していたJoey Ramoneがリンパ腫のため49歳で死去。
2002年3月18日、Ramonesはロックの殿堂(Rock and Roll Hall of Fame)入りを果たす。しかしその栄光からわずか3ヶ月後の2002年6月5日、Dee Dee Ramoneがヘロインの過剰摂取により50歳で急逝。さらに2004年9月15日には前立腺癌を患っていたJohnny Ramoneが55歳で他界。そして2014年7月11日、最後のオリジナル・メンバーだったTommy Ramoneが胆管癌のため65歳で亡くなり、結成時の4人全員が鬼籍に入った。
親友のアーティストArturo Vegaが手掛けた、アメリカ大統領の紋章をモチーフに野球バットと「HEY HO LET'S GO」の文字を配したラモーンズ・ロゴは、音楽ファンのみならずストリート・ファッションの世界的アイコンとして定着している。2011年には第53回グラミー賞にて特別功労賞生涯業績賞(Grammy Lifetime Achievement Award)を受賞。
Sex Pistols、The Clashをはじめ、Green Day、The Offspring、Blink-182といったポップ・パンク勢、さらにはMetallica、Motörhead、Nirvana、Pearl Jamに至るまで、彼らが刻んだ「無駄を削ぎ落とし、大音量で、誰よりも速く駆け抜ける」というロックンロールの本質は、今なお色褪せることなく鳴り響いている。