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The Allman Brothers Band(オールマン・ブラザーズ・バンド)は、1969年にジョージア州メイコンを拠点に結成されたアメリカのロック・バンドだ。活動期間は1969〜1976年、1978〜1982年、1989〜2014年に及び、1995年にはロックの殿堂入りを果たしている。
創設の中心人物はギタリストのデュアン・オールマン(Duane Allman)と、その弟でボーカル兼オルガン奏者のグレッグ・オールマン(Gregg Allman)の兄弟だ。そこにディッキー・ベッツ(ギター)、ベリー・オークリー(ベース)、ブッチ・トラックス(ドラム)、ジェイモー(ドラム)が加わり、白人と黒人が混成し、ツイン・リード・ギターとツイン・ドラムを擁する特異な6人編成を確立した。ブルース、ロック、カントリー、ジャズを高度なインプロヴィゼーション(即興演奏)で融合させ、「サザン・ロック」というジャンルの先駆にして頂点として語り継がれている。
デュアン・オールマンは、前身バンドであるアワー・グラス(The Hour Glass)の解散後、アラバマ州マッスル・ショールズのFAMEスタジオでセッション・ギタリストとして頭角を現した。ウィルソン・ピケットによる「Hey Jude」のカヴァーでの名演をはじめ、アレサ・フランクリンやボズ・スキャッグスらの作品で圧倒的なスライド・ギターを披露し、天才ギタリストとして名を轟かせた。この才能に惚れ込んだオーティス・レディングの元マネージャー、フィル・ウォルデンが独立レーベル「カプリコーン・レコーズ」を立ち上げ、デュアンを中心とするバンドの結成を後押しした。
1969年3月26日、フロリダ州ジャクソンビルでデュアン、黒人ジャズ・ドラマーのジェイモー、ベーシストのベリー・オークリー、力強いビートを刻むブッチ・トラックス、流麗なフレーズを弾くディッキー・ベッツが集まり、マディ・ウォーターズの「Trouble No More」を初めてセッションした。そこにロサンゼルスから呼び戻されたグレッグが合流し、6人のラインナップが完成する。彼らはジョージア州メイコンのヴィクトリア調の大邸宅「ビッグ・ハウス(The Big House)」で共同生活を送りながら、猛烈なリハーサルとツアーで結束を固めていった。
デビュー作『The Allman Brothers Band』(1969年)や、名匠トム・ダウドをプロデューサーに迎えた『Idlewild South』(1970年)は、批評家から絶賛されたものの、当初のセールスは小規模にとどまった。しかし「Whipping Post」「Dreams」「Midnight Rider」「In Memory of Elizabeth Reed」といった代表曲がこの時期に次々と生み出され、年間300本近くに及ぶ過酷なツアーを通じてバンドの演奏力は凄まじい領域へと達していた。なお、デュアンは1970年にエリック・クラプトン率いるデレク・アンド・ザ・ドミノスの傑作『Layla and Other Assorted Love Songs(いとしのレイラ)』にも客演し、クラプトンとの劇的なツイン・ギターで世界的な評価を確固たるものにしている。
バンドの真価が決定的に刻まれたのが、1971年3月にニューヨークのフィルモア・イーストで行われたコンサートを収めた2枚組ライヴ盤『At Fillmore East』だ。「Statesboro Blues」「Whipping Post」「Mountain Jam」など、ブルースとジャズ的な長尺即興が渾然一体となった怒涛の演奏は全米13位を記録し、プラチナ・ディスクを獲得。ロック史上最高峰のライヴ・アルバムのひとつとして称賛され、後年には米議会図書館の国家保存重要録音物にも選定された。
絶頂期を迎えていた1971年10月29日、デュアン・オールマンがメイコン市内をオートバイで走行中にトラックとの衝突事故を起こし、24歳の若さで急逝する。深い悲痛に見舞われたバンドだったが、デュアンが遺した録音を含む『Eat a Peach』(1972年)を完成させ、全米4位のヒットを記録した。だが悲劇は終わらず、同作リリース後の1972年11月11日、今度はベーシストのベリー・オークリーが、デュアンの事故現場からわずか3ブロック離れた地点で同じくオートバイ事故により24歳で命を落とした。
創設メンバーを続けて2人失ったバンドは、ピアニストのチャック・リーヴェルとベーシストのラマー・ウィリアムズを迎えて活動を継続。新たなギタリストは加えず、ディッキー・ベッツが単独でギターを担う体制で前進した。1973年7月28日にはニューヨーク州ワトキンス・グレンの「サマー・ジャム」でザ・バンド、グレイトフル・デッドと共演し、当時の史上最多となる推定60万人の観衆を前に演奏を披露した。
同年8月発表のアルバム『Brothers and Sisters』はビルボード200で5週連続1位を獲得するメガヒットとなった。ベッツがリード・ボーカルとギターを務めたシングル「Ramblin' Man」は全米2位(1位は奇しくもグレッグがのちに結婚するシェールの「Half-Breed」)を記録し、インストゥルメンタル「Jessica」も大ヒットして、バンドは商業的にも全米の頂点に立った。
急速な成功と富はドラッグ禍とメンバー間の軋轢を深めた。グレッグのソロ活動やシェールとの結婚(1975年)、ディッキー・ベッツのソロ活動で求心力が低下する中、1976年にローディーの麻薬裁判でグレッグが証言したことを契機にメンバー間の関係が決定的に破綻し、最初の解散を迎えた。1978年にアリスタ・レコーズへ移籍して再結成し『Enlightened Rogues』(1979年)などを発表するが、1982年に再び活動を停止した。
1989年、結成20周年を機にグレッグ、ディッキー、ブッチ、ジェイモーの4人が再結集。若き名手ウォーレン・ヘインズ(ギター)とアレン・ウッディ(ベース)を迎え、プロデューサーのトム・ダウドとともに『Seven Turns』(1990年)を発表して見事な復活を遂げた。1995年にはロックの殿堂入りを果たしている。
2000年に確執からディッキー・ベッツが離脱するが、ブッチ・トラックスの甥で神童スライド・ギタリストとして1999年に19歳で加入していたデレク・トラックスとウォーレン・ヘインズによるツイン・ギター、そしてオテイル・バーブリッジのベースという強力な編成へ移行。2003年のスタジオ作『Hittin' the Note』でも円熟味と革新性を両立させた演奏を聴かせた。
The Allman Brothers Bandの伝説を決定づけたのは、スタジオ盤以上にライヴでの圧倒的なインプロヴィゼーションだ。とりわけニューヨークの殿堂「ビーコン・シアター」で毎年3月に行われた恒例の連続公演は名物となり、通算238公演すべてを完売にする偉業を達成した。
2014年10月28日、ビーコン・シアターでのマラソン公演をもって45年におよぶバンドの歴史に幕を下ろした。深夜を回った最終アンコールで演奏されたのは、1969年3月26日の初顔合わせで最初に音を合わせたマディ・ウォーターズの「Trouble No More」であり、すべての歴史を原点へと回収する感動的な終幕となった。その後、2017年にブッチ・トラックスとグレッグ・オールマンが、2024年にはディッキー・ベッツがこの世を去っている。
The Allman Brothers Bandのサウンドを決定づけているのは、綿密に構築されたツイン・リード・ギターの対話だ。デュアン・オールマンの鋭角で情熱的なスライド・ギターと、ディッキー・ベッツの流麗で歌心に満ちたメジャー・ペンタトニックのフレーズが、3度や6度の美しいハーモニーで重なり合うアンサンブルは、ロックにおけるギター・ハーモニーのひとつの究極形となった。
リズム隊の構造も比類がない。力強いビートで推進力を生み出すブッチ・トラックスと、ジャズ由来のスウィング感やポリリズムを持ち込むジェイモーによるツイン・ドラムは、機関車のような疾走感と繊細なグルーヴを両立させ、何十分にも及ぶ長尺ジャムを破綻なく牽引した。そこに若くして老成した哀愁を湛えたグレッグ・オールマンのハスキーなブルース・ボーカルとハモンドB-3オルガンの分厚い響き、ベリー・オークリーが奏でるメロディックでアグレッシブな「トラクター・ベース」が加わり、楽曲の枠組みを超えて有機的に形を変えていく即興の美学を完成させた。
彼らが切り開いたサウンドは、レイナード・スキナードやマーシャル・タッカー・バンドといったサザン・ロックの後続勢力に直結しているだけでなく、ブルース、ロック、ジャズを高度な即興で結合させる演奏スタイルは、フィッシュ(Phish)、ガヴメント・ミュール(Gov't Mule)、テデスキ・トラックス・バンド(Tedeschi Trucks Band)、ワイドスプレッド・パニックといった現代のアメリカン・ジャム・バンド・ムーヴメントの直接的な原点となった。録音作品の完成度のみならず、ステージ上で交わされるスリリングな音楽的対話のあり方において、いまなおロック史上最高峰のアンサンブルとして称賛され続けている。