James Brown

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James Brownとは

James Brown(ジェームス・ブラウン、本名James Joseph Brown Jr.)は、1933年5月3日にサウスカロライナ州で生まれ、2006年12月25日にアトランタで逝去したアメリカのシンガー、ソングライター、バンドリーダー、音楽プロデューサーだ。「ソウルのゴッドファーザー(The Godfather of Soul)」、「ソウル・ブラザー・ナンバーワン」、「ショービジネス界で最もハードに働く男(The Hardest Working Man in Show Business)」など無数の異名を持ち、R&Bからファンク(Funk)という新たな音楽ジャンルを創造したポピュラー音楽史上最大級の巨人である。1986年にロックの殿堂の創設第1回メンバーとして殿堂入りを果たした。

過酷な生い立ちとThe Famous Flamesの結成

ブラウンはサウスカロライナ州バーンウェル近郊の極貧の木造小屋に生まれ、4歳のときに母親が失踪したあとはジョージア州オーガスタにある叔母の売春宿で育てられた。1回3セントの靴磨き、洗車、綿摘み、軍兵士の前でのストリート・ダンスで日銭を稼ぐ過酷な少年時代を過ごした。16歳のときに武装強盗の罪で逮捕され少年院に収監されたが、服役中に音楽の才能を発揮。同じく少年院で出会ったボビー・バード(Bobby Byrd)とその家族の身元引受によって1952年に仮釈放された。

バードが率いていたゴスペル・グループ「ゴスペル・スターライターズ」に加入し、やがてR&Bへ転向して「ザ・フェイマス・フレイムズ(The Famous Flames)」を結成。1956年にキング・レコード傘下のフェデラルから発表したデビュー曲「Please, Please, Please」は、レーベル社長シド・ネイサンから「たった一言(Please)を連呼しているだけのゴミ」と酷評されたものの、100万枚を超える大ヒットを記録。1958年には「Try Me」が初の全米R&Bチャート1位を獲得し、一躍全国区のスターへと躍り出た。

『Live at the Apollo』の金字塔とライヴ・パフォーマンス

ブラウンの真骨頂は、激しいステップ、スプリット(股割り)、マイクスタンドを自在に操る神業的なライヴ・パフォーマンスにあった。なかでも「Please, Please, Please」の終盤、疲労困憊して崩れ落ちたブラウンにMCやボビー・バードがケープを羽織らせてステージ袖へ連れ出そうとすると、突如ケープを跳ね除けてマイクへ猛突進する「ケープ・ルーティン」は、観客を熱狂の渦に巻き込む名物演出となった。

1962年秋、ブラウンはニューヨーク・ハーレムの聖地アポロ・シアターでのライヴ録音を計画。社長シド・ネイサンは「誰もが既に持っている曲のライヴ盤など売れるはずがない」と資金拠出を拒絶したが、ブラウンは自腹で5,700ドルを工面して録音を強行した。1963年5月に発表された『Live at the Apollo』は、全米アルバム・チャートで第2位を記録し、66週にわたってチャートインする空前の大ヒットとなった。ラジオ局がA面からB面まで全編をノンストップで放送するなど社会現象を巻き起こし、ポピュラー音楽史に「ライヴ・アルバム」というジャンルそのものを定着させた。

「The One」の創出とファンクの誕生

1965年、ブラウンは音楽の概念を覆すシングル「Papa's Got a Brand New Bag」を発表(R&Bチャート8週連続1位、ポップ・チャート8位、グラミー賞受賞)。従来のR&Bが2拍目と4拍目(バックビート)を強調していたのに対し、小節の最初の拍(1拍目=「The One」)にすべての重力とアクセントを集中させる革新的なリズム理論を確立した。続く「I Got You (I Feel Good)」(1965年、全米3位)で世界的名声を決定づけた。

さらに1967年、サックス奏者ピー・ウィー・エリスとともに生み出した「Cold Sweat」は、メロディ展開や和音の進行を極限まで解体し、クライド・スタブルフィールドのドラムと管楽器の短いリフの反復だけで極上のグルーヴを生み出す「世界最初の純粋なファンク」として歴史に刻まれた。

ボストン・ガーデンの奇跡とブラック・プライド

1968年4月4日にマーティン・ルーサー・キング牧師が暗殺された直後、全米の主要都市で大規模な暴動が勃発するなか、翌4月5日のボストン・ガーデン公演が決行された。ボストン市長ケヴィン・ホワイトの協力のもと、公演の模様は地元公共テレビWGBHでノーカット生中継され、市民に自宅でテレビを見るよう促した。興奮した観客がステージに殺到した際も、ブラウンが威厳をもって警官を制止し若者たちに冷静さを呼びかけたことで、ボストンは全米の大都市で唯一暴動を免れた。

同年夏には「Say It Loud – I'm Black and I'm Proud」を発表。自らの黒人としてのアイデンティティと誇りを高らかに歌い上げ、公民権運動とブラック・パワー・ムーヴメントの最大のアンセムとなった。

The J.B.'sの結成とファンク帝国の確立

1970年3月、過酷なツアー日程やミストーンに対する罰金制度などの厳格な規律をめぐって長年のバンドメンバーが一斉にボイコットを起こすと、ブラウンはシンシナティの無名若手グループ「ザ・ペースメイカーズ」をその日のうちに採用した。その中心にいたのが、当時18歳の天才ベーシスト、ブーツィー・コリンズ(Bootsy Collins)と兄のギタリスト、キャットフィッシュ・コリンズであった。

新バンド「ザ・ジェイズビーズ(The J.B.'s)」は、ドラマーのジョン・“ジャボ”・スタークス、トロンボーン奏者のフレッド・ウェズリーらとともに「Get Up (I Feel Like Being a) Sex Machine」(1970年)、「Super Bad」、「Soul Power」など、ファンクの極致と呼ぶべき傑作を立て続けに録音した。ブーツィーらが後にジョージ・クリントンのP-Funkへ移籍したことで、ブラウンが蒔いたファンクの種子はさらに巨大なムーヴメントへと広がっていった。

1971年にポリドールへ移籍。映画『ブラック・シーザー』のサントラ(1973年)を経て、1973年末に発表した2枚組アルバム『The Payback』は、映画制作者に「ファンクが足りない」と突き返された音源であったが、リリースされるやキャリア唯一のゴールド・ディスク認定(50万枚以上)を獲得し、ディープ・ファンクの不朽の金字塔となった。1974年にはザイール(現コンゴ民主共和国)でのモハメド・アリ対ジョージ・フォアマン戦に先立つ音楽祭「ザイール74」に出演し、アフリカ大陸の聴衆をも圧倒した。

ヒップホップへの架橋、晩年、そして逝去

1970年代後半のディスコ・ブームで一時失速したものの、1980年代に入ると映画『ブルース・ブラザース』(1980年)での牧師役出演や、黎明期のヒップホップDJたちによる再発見によって神格化が進んだ。1984年にはアフリカ・バンバータと共闘したシングル「Unity」を発表。1985年には映画『ロッキー4』の主題歌「Living in America」が全米第4位の大ヒットを記録し、グラミー賞を受賞した。

1986年、ロックの殿堂の創設第1回メンバーとして殿堂入り。1992年にはグラミー生涯功労賞を受賞した。数々の法道トラブルや投獄を経験しながらも世界ツアーを精力的に続けたが、2006年12月25日のクリスマス、肺炎による鬱血性心不全のためアトランタの病院で73歳で逝去。遺体はアポロ・シアターのステージに安置され、数万人のファンが別れを告げた。

音楽的革命と後世への影響

ジェームス・ブラウンがポピュラー音楽にもたらした革命は以下の要素に集約される。

第1に「The One」の確立である。1拍目を重力のように強調することで、西洋音楽の伝統的なコード進行重視の構造を解体し、リズム主導のグルーヴ音楽へと転換させた。第2に「あらゆる楽器のパーカッション化」である。ギターのカッティング、管楽器の短いスタブ、ベースライン、そして彼自身のシャウトに至るまで、すべてのパートを打楽器的なリズムの歯車として噛み合わせた。

そして第3に「ヒップホップの最大の礎」となったことである。クライド・スタブルフィールドが叩いた「Funky Drummer」のブレイクビーツをはじめ、「Give It Up or Turnit a Loose」「The Payback」などはポピュラー音楽史上最もサンプリングされた音源となった。パブリック・エナミー、N.W.A、エリックB.&ラキム、マイケル・ジャクソン、プリンスに至るまで、現代のダンス・ミュージックとブラック・ミュージックの全歴史がジェームス・ブラウンの肉体とグルーヴから派生している。

ジャンル・スタイル

Blues Funk / Soul Pop Disco Funk Rhythm & Blues Soul
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