Vinyl Record Reviews
The Rolling Stonesは、1962年にロンドンで結成されたイングランドのロック・バンドだ。ブルースやR&Bを揺るぎない根底に置きながら、ロックンロール、カントリー、ゴスペル、ファンク、ディスコに至る同時代の音楽をどん欲に呑み込み、半世紀以上にわたって第一線を走り続けている。世界累計アルバムセールスは2億5000万枚を超え、1989年にはロックの殿堂入りを果たした、ロック史上屈指の生命力と商業的成功を誇る伝説的グループである。
結成の端緒は、幼なじみだったミック・ジャガーとキース・リチャーズの再会にある。1960年、ダートフォード駅のプラットホームで再会した2人は、ミックが抱えていたマディ・ウォーターズやチャック・ベリーの輸入レコードをきっかけに意気投合し、「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」を結成した。1962年、アレクシス・コーナー率いるブルース・インコーポレイテッドに客演していたブライアン・ジョーンズのスライドギターに衝撃を受けた2人はジョーンズ、ピアニストのイアン・スチュワートと合流。1962年7月12日にロンドンのマーキー・クラブで初ギグを行った。同年12月にビル・ワイマン、翌1963年1月にジャズ出身のドラマー、チャーリー・ワッツが加わり、盤石の布陣が完成した。バンド名は、ジョーンズが音楽紙『ジャズ・ニュース』の電話取材を受けた際、床に置かれていたマディ・ウォーターズのレコード収録曲「Rollin' Stone」から咄嗟に名付けたことに由来する。
19歳のアンドリュー・ルーグ・オールダムがマネージャーに就任すると、バンド名の綴りは「The Rolling Stones」に改められた。オールダムの構想から外れたイアン・スチュワートは公式メンバーから除外されたものの、ロードマネージャー兼ピアニストとして1985年に死去するまでバンドを支え続けることとなる。デッカ・レコードと契約したバンドは、防音用に卵の紙パックが貼られた安価なリージェント・サウンド・スタジオを拠点に録音を行い、時間に縛られずに独自のサウンドを追求した。
オールダムは、スーツを着て礼儀正しい「優等生」ビートルズに対抗し、笑顔を見せない反逆児・悪童としてのイメージを徹底的にプロデュース。「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」という挑発的なコピーを掲げた。ビル・ワイマンは後に「俺たちの悪ガキって評判は後からやってきた。アンドリューがそれを徹底的に利用しただけさ」と回想している。1963年6月にチャック・ベリーのカバー「Come On」でデビュー(全英21位)。レノン=マッカートニー提供の「I Wanna Be Your Man」(全英12位)を経て、オールダムに促されてミックとキースが本格的な自作を開始した。1965年、キースがホテルの部屋で起床時に思いついたリフから生まれた「(I Can't Get No) Satisfaction」が初の全米1位・全英1位を獲得し、世界的なスターダムに駆け上がった。
1967年、キースの別荘レッドランドでのドラッグ手入れ事件でミックとキースが逮捕・起訴される騒動が勃発するが、『タイムズ』紙が「牛刀を以て鶏を割くのは誰だ?」と題した擁護社説を掲載するなど社会的な波紋を呼んだ。サイケデリック路線を試みた『Their Satanic Majesties Request』を経て、プロデューサーにジミー・ミラーを迎えた1968年の『Beggars Banquet』(全英3位・全米5位)で、バンドは泥臭いアコースティック・ブルースやカントリーなど本来のルーツへ回帰。「Sympathy for the Devil」「Street Fighting Man」が生まれ、キースはこの時期から5弦オープンGチューニングを導入して代名詞となるリフを開拓していった。
一方、薬物中毒と精神的疲弊により活動不能に陥った創設者ブライアン・ジョーンズは、1969年6月にバンドを脱退(ミックは「この生き方には心理的に適していなかった」と述懐)。脱退から1か月足らずの7月3日、ジョーンズは自宅プールで謎の溺死を遂げた(享年27)。そのわずか2日後、元ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのミック・テイラーを迎えたハイド・パークでのフリーコンサート(推定25万人動員)は急遽ジョーンズ追悼公演となり、司会のサム・カトラーが叫んだ「世界最大のロックンロール・バンド」のフレーズは以後バンドの代名詞となった。
1969年12月に発表された名盤『Let It Bleed』(全英1位・全米3位)には「Gimme Shelter」「You Can't Always Get What You Want」などを収録。同月、ツアーの締めくくりとして開催されたオルタモント・フリーコンサートでは、警備を担当したヘルズ・エンジェルスが観客を刺殺する「オルタモントの悲劇」が発生し、60年代カウンターカルチャーの終焉を象徴する出来事となった。
デッカおよびアラン・クレインとの契約を終えたバンドは、自らのレーベル「ローリング・ストーンズ・レコード」(ジョン・パッシェ設計によるベロマーク“Tongue and Lips”)を設立。1971年、アンディ・ウォーホルがデザインした本物のジッパー付きジャケットで知られる『Sticky Fingers』(英米1位)をリリース。「Brown Sugar」「Wild Horses」を収め、ミック・テイラーの流麗で叙情的なリードギターが前面にフィーチャーされた。
イギリスの高額な累進課税を逃れるため、バンドは南フランスへ移住。ヴィルフランシュ=シュル=メールにあるキースの別荘「ネルコート」の湿気た地下室に移動録音車(モービル・ユニット)を持ち込み、過酷で混沌としたセッションを敢行した。ロサンゼルスで仕上げられた2枚組『Exile on Main St.(メイン・ストリートのならず者)』(1972年、英米1位)は、ブルース、ロックンロール、ゴスペル、カントリーが一体となったストーンズの最高傑作として歴史的評価を確立している。
1973年の『Goats Head Soup』(英米1位)からは世界的バラード「Angie(悲しみのアンジー)」がヒット。同年1月には日本武道館での初来日公演が完売していたが、過去の薬物逮捕歴を理由に入国許可が下りず直前に中止となった。1974年の『It's Only Rock 'n Roll』(全英2位・全米1位)では、ミックとキースが「グリマー・ツインズ」名義でセルフプロデュースを担当。タイトル曲はロン・ウッドの自宅で生まれ、ケニー・ジョーンズとの口論から「たかがロックンロール、でも好きなんだ」の歌詞が生まれた。同年暮れ、自身のソングライティングへの貢献が認められないことやバンド内の重圧に悩んだミック・テイラーが脱退(「他人の成功に乗っかるだけでは十分ではなかった」と語っている)。
1975年、後任ギタリストを選定するセッションを経て、フェイセズを脱退したロン・ウッドが加入(1976年3月に正式加入発表)。1976年にはウッド参加第1作『Black and Blue』(全米1位)をリリースした。ストーンズのサウンドは、リードとリズムをきっちり分けるスタイルから、2本のギターが対等に絡み合う「ギター・ウィーヴィング」へと進化を遂げる。
1977年2月、カナダ・トロントのエル・モカンボ公演のために訪れたキースがヘロイン所持で王立カナダ騎馬警察に逮捕され、長期刑の危機に直面。裁判の結果、盲人支援チャリティ公演を行う保護観察処分となり、この事件を機にキースはヘロイン中毒を完全に断ち切る決意を固めた。
当時台頭したパンク・ロック勢から「過去の遺物」と激しい批判を浴びる中、バンドは1978年に『Some Girls(女たち)』(全英2位・全米1位)を発表。ディスコ・ビートを取り入れた「Miss You」や、荒々しく疾走するギターロック「Shattered」「Beast of Burden」を叩き込み、パンクへの鮮烈な回答を提示して全米600万枚以上の大ヒットを記録した。1980年の『Emotional Rescue』(英米1位)に続き、1981年には過去のアウトテイクを磨き上げた『Tattoo You(刺青の男)』(全英2位・全米1位・9週連続)をリリース。オープニングを飾るキースの代名詞的リフ「Start Me Up」は80年代を代表するアンセムとなり、ジャズの巨匠ソニー・ロリンズがサックスを吹く「Waiting on a Friend(友を待つ)」もヒット。同年の全米ツアーは記録的な観客動員を誇るメガ・スタジアム・ツアーの嚆矢となった。
1983年の『Undercover』発表後、ミックとキースの音楽的方向性と主導権を巡る対立が深刻化。ミックはソロ契約を結び、ソロアルバム『She's the Boss』(1985年)に専念した。1985年12月、結成時からの精神的支柱であったイアン・スチュワートが心臓発作で死去(享年47)。1986年の『Dirty Work』はキース主導で完成させたものの、ミックはプロモーションツアーを拒否して単独でソロツアーを開催。キースはこの時期を「第三次世界大戦」と呼び、バンドは結成以来最大の解散危機を迎えた。キースも1988年に初のソロ作『Talk Is Cheap』を発表している。
1989年、ロックの殿堂入りをきっかけにミックとキースが直接対話を行い和解。3年ぶりの新作『Steel Wheels』(全英2位・全米3位)をリリースし、シングル「Mixed Emotions」でメンバーの結束を取り戻した。続く世界ツアーでは、1990年2月に東京ドーム10日間連続公演を行い、1973年の中止から17年越しとなる悲願の初来日公演が実現。社会現象を巻き起こした。このツアーを最後に、結成メンバーのベーシストであるビル・ワイマンが脱退した(1993年正式発表)。
ビル・ワイマンの後任としてダリル・ジョーンズをサポート・ベーシストに迎え、1994年に『Voodoo Lounge』(全英1位・全米2位)を発表。第37回グラミー賞で最優秀ロック・アルバム賞を受賞した。同ツアー中の1994年11月18日、サン・マイクロシステムズの支援により、メジャーアーティストとして世界初となるインターネット生中継コンサート(Mbone配信)を実施している。
1997年の『Bridges to Babylon』、2002年の結成40周年記念盤『Forty Licks』と大規模ツアーを成功させ、2003年にはミック・ジャガーが英王室からナイトの爵位を授与された。2005年には『A Bigger Bang』(全英2位・全米3位)を発表。2006年のリオデジャネイロ・コパカバーナ海岸での無料公演では150万人を動員した。
2016年、バンドの原点であるシカゴ・ブルースのカバーのみで構成されたアルバム『Blue & Lonesome』をわずか3日間のセッションで録音・発表。全英1位を獲得し、グラミー賞最優秀トラディショナル・ブルース・アルバム賞を受賞した。同年にはキューバのハバナで歴史的な大規模無料コンサートを開催している。
2020年4月、新型コロナウイルスの世界的な都市封鎖の最中、8年ぶりのオリジナル新曲「Living in a Ghost Town」を緊急リリースし、ドイツのシングルチャートで52年ぶりの1位を獲得した。
2021年8月24日、結成以来58年間にわたりバンドの屋台骨であり続けたドラマー、チャーリー・ワッツがロンドンの病院で死去(享年80)。世界中に深い悲しみが広がる中、バンドはチャーリーが生前指名していた盟友スティーヴ・ジョーダンをドラムに迎えてツアーを続行した。
2023年10月20日、18年ぶりとなるオリジナル・アルバム『Hackney Diamonds』をリリース(全英1位)。生前のチャーリー・ワッツのドラムトラック2曲に加え、元メンバーのビル・ワイマン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダー、レディー・ガガらがゲスト参加した。同作は2025年2月の第67回グラミー賞で『Voodoo Lounge』以来2度目となる最優秀ロック・アルバム賞を受賞。結成60年を超えてなお、ストーンズはロックの生きた伝説としてスタジアムを熱狂させ続けている。
ストーンズのサウンドの最大の核は、通常のリズム隊(ベースとドラム)主導ではなく、「キースのリズム・ギターとチャーリーのドラムス」が生み出す独特のグルーヴにある。ジャズ出身のチャーリーが、キースのリフのわずか後ろにスネアを落とし、ハイハットの打点を絶妙にコントロールすることで、独特の粘り気と推進力を持つスウィング感が生まれていた。
ブルース、R&B、初期ロックンロールを揺るぎない背骨としながら、カントリー、レゲエ、ディスコ、ファンクなど各時代の潮流を貪欲に吸収し、自らの血肉へと変換してきた柔軟性こそが、彼らを半世紀以上にわたって「世界最高のロックンロール・バンド」たらしめている真髄である。