Vinyl Record Reviews
David Bowieは、1947年1月8日にロンドンのブリクストンでデヴィッド・ロバート・ジョーンズとして生まれた、イギリスのシンガー、ミュージシャン、ソングライター、俳優だ。2016年1月10日にニューヨークで69歳で亡くなっている。ロック、エレクトロニック、ジャズ、ポップ、ファンク/ソウルまで幅広い領域で活動し、ロックの歴史の中でも特に影響力の大きい人物として扱われている。
15歳のころに最初のバンド「コンラッズ」を結成し、その後はキング・ビーズ、マニッシュ・ボーイズ、ロウワー・サードなどを渡り歩いた。モンキーズのデイヴィー・ジョーンズと混同されないように、開拓者ジェームズ・ボウイとボウイ・ナイフにちなんで「David Bowie」を名乗るようになった。
また、10歳上の異父兄テリー・バーンズの存在や、1962年に友人ジョージ・アンダーウッドとのけんかで左目を負傷したことも知られている。この負傷で瞳孔が開いたままになり、左右で瞳の色が違って見える状態になった。前衛演劇やマイムをリンジー・ケンプのもとで学んだ経験は、後のキャラクター作りにそのままつながっていく。
1969年7月11日、アポロ11号の打ち上げの5日前に「Space Oddity」を発表し、全英トップ5入りを果たした。1971年の『Hunky Dory』には、息子に捧げた「Kooks」が収録されている。
1972年2月10日には、キングストン・アポン・テムズのパブ「トビー・ジャグ」でジギー・スターダストとして初めてステージに立った。同年6月の『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』では、ミック・ロンソン、トレヴァー・ボルダー、ミック・ウッドマンジーと組み、7月の『Top of the Pops』での「Starman」の演奏が英国での人気を決定づけた。
この時期は、モット・ザ・フープルに「All the Young Dudes」を提供し、ルー・リードの『Transformer』制作にも関わっている。1973年の『Aladdin Sane』は「アメリカへ行ったジギー」とも呼ばれ、初の全英1位アルバムになった。ジギー・スターダストは1973年7月3日のハマースミス・オデオン公演で引退した。
1974年の『Diamond Dogs』はオーウェルの『1984年』から着想を得た作品だ。1975年の『Young Americans』では、自身が「プラスチック・ソウル」と呼んだソウル寄りのサウンドに移り、ジョン・レノン、カルロス・アロマーと共作した「Fame」で初の全米1位を記録した。
1976年の『Station to Station』では「シン・ホワイト・デューク」というキャラクターを打ち出し、シンセサイザーやクラウトロックの要素を強く出している。一方で、この時期はコカイン依存が深刻だったとされ、本人は制作について「断片的にしか覚えていない」と語っている。
同年のツアーでは、ファシズムを擁護するように受け取られた発言や、ナチス式敬礼と見なされた振る舞いが問題になった。後年、本人はコカイン依存と「シン・ホワイト・デューク」というキャラクターの影響だったと説明している。
依存から抜け出すため、イギー・ポップとともにベルリンへ移り、トニー・ヴィスコンティ、ブライアン・イーノと組んで『Low』『"Heroes"』(ともに1977年)、『Lodger』(1979年)のいわゆるベルリン三部作を制作した。
『"Heroes"』はベルリンの壁から約500ヤードのハンザ・スタジオで録音されている。タイトル曲の「壁のそばでキスする恋人たち」は、実際にはヴィスコンティと歌手アントニア・マースがモデルになっている。ヴィスコンティが当時既婚だったため、ボウイがそれを明かしたのは2003年になってからだった。ロバート・フリップがアンプとの距離を変えながら録音したギター・フィードバックも、この曲の重要な要素だ。フリップが録った3テイクを、ヴィスコンティがまとめて「夢見るような、むせび泣くような」音に仕上げた。シングルは全英24位だったが、ヨーロッパ各地でヒットした。
1987年には西ベルリンの帝国議会議事堂前で公演を行っている。2016年のボウイの死に際して、ドイツ外務省は「壁の崩壊を手助けしてくれてありがとう」と追悼した。
1980年の『Scary Monsters』とシングル「Ashes to Ashes」はともに全英1位になった。1980年から81年にはブロードウェイの『エレファント・マン』でジョゼフ・メリックを演じている。
1981年にはクイーンと「Under Pressure」を発表し、1983年の『Let's Dance』ではナイル・ロジャースをプロデューサーに迎えた。タイトル曲、「China Girl」、「Modern Love」がヒットし、英米で1位を記録した。ギターではスティーヴィー・レイ・ヴォーンが参加している。
1985年にはライヴ・エイドに出演し、1986年には映画『ラビリンス/魔王の迷宮』で魔王ジャレスを演じた。
1989年から1991年にかけてはティン・マシーンのフロントマンとして活動した。1992年4月24日には、ローザンヌでモデルのイマンと結婚している。
1995年の『Outside』ではブライアン・イーノと再び組み、1997年の『Earthling』ではジャングルやドラムンベースを取り入れた。
1997年には、1990年以前の25枚のアルバムの印税を裏付けにした債券「ボウイ債」を発行し、5500万ドルを調達している。同年にはファン向けのインターネット・サービス「BowieNet」も立ち上げた。2000年には大英帝国勲章(CBE)を、2003年にはナイトの爵位を辞退し、「そういうものを受け取るつもりはまったくない。それが何のためのものなのか本当に分からない」と語っている。
2004年6月25日、ドイツのハリケーン・フェスティバルで胸の痛みを訴え、冠動脈の閉塞で緊急の血管形成術を受けた。その後は表立った活動が少なくなったが、2013年1月8日、66歳の誕生日にシングル「Where Are We Now?」とアルバム『The Next Day』を予告なしに発表した。
同年にはロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館で回顧展「David Bowie Is」が開かれ、30万人以上が訪れた。巡回展を含めると約200万人が見たとされている。
2014年半ばには肝臓がんと診断されたが公表せず、2015年1月から5月にかけてニューヨークで最後のアルバム『Blackstar』を録音した。2015年12月7日のミュージカル『Lazarus』初日が、公の場への最後の登場になっている。
2016年1月8日、69歳の誕生日に『Blackstar』を発表し、その2日後の1月10日にニューヨークの自宅で亡くなった。ヴィスコンティは「彼の死は彼の人生と変わらない、ひとつの芸術作品だった。『Blackstar』は僕たちへの別れの贈り物だ」と語った。『Blackstar』は各国で1位を記録し、2017年のグラミー賞ではノミネートされた5部門すべてで受賞している。遺灰は本人の希望により、バリ島で仏教の儀式とともに撒かれた。
生涯のレコード売上は1億枚以上とされ、1996年にはロックの殿堂入りを果たした。2002年のBBC「最も偉大な英国人100人」では29位、2004年のローリング・ストーン誌「史上最も偉大なアーティスト」では39位に入っている。
2022年には21世紀で最もアナログ盤を売ったアーティストになった。グラム・ロック、エレクトロニック、インダストリアル、シンセポップ、ヒップホップ、インディー・ロックなど、影響はかなり広い。絶えず姿を変えることから「ロックのカメレオン」と呼ばれ、ビルボード誌は、どのロック・スターよりも多くの音楽ジャンルに影響を与えたと評している。