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Di Meloは、1949年4月22日にブラジル・レシフェで生まれたシンガー、ソングライターで、画家、彫刻家、俳優、作家、詩人でもある。
本名はRoberto de Melo Santos。父はタクシー運転手でギタリスト、母は歌手で、本人も母の影響を強く受けて育ったという。
13歳で最初の曲を書いた。1965年には、ロベルト・カルロスと仕事をしていたオルガン奏者に勧められてサンパウロへ向かうが、寒さになじめずレシフェへ戻っている。
1968年にはJorge BenからマネージャーのRoberto Colossiの名刺を渡され、サンパウロでの後ろ盾を得た。
1973年から1974年には東京で暮らしており、その時期にのちの代表曲「Kilariô」などを書いている。
Colossiの死後、Di Meloはサンパウロのバーで歌っていたところを、歌手Alaíde Costaの紹介でEMI-Odeonのディレクター、Moacir Meneghini Machadoとつながり契約した。
1975年のデビュー作『Di Melo』は8日間で録音され、Hermeto Pascoal、Heraldo do Monte、Geraldo Vesparらが参加している。ラジオ向けに3000枚がプレスされ、放送でもよく流れ、初回プレスは売り切れたという。
WandoやJair Rodriguesも彼の曲を録音している。いっぽうで、本人は四半期分の印税として受け取ったのは11クルゼイロだったと語っている。また、軍事政権下でプロデューサーに政治的な曲を止められたとも話していて、その後は契約を解いてもらい、バーで歌う生活に戻った。
1990年代初め、Di Meloは酔ってバイクでサンパウロのピニェイロスを走っていた際、2台のトラックを避けて橋から川に飛び込む事故に遭い、半年間のリハビリが必要になった。その後、死亡説が広まり、「imorrível」(死なない男)というあだ名が生まれた。
1999年にはロンドンの友人から、自分の声が世界のトップ10に選ばれていること、そしてバイク事故で死んだことになっていることを聞かされ、「死んだのに知らせ忘れられていた」と冗談を言っている。
木彫りや美術品の売買で生計を立てた時期もあり、「落ち込んで、生きるために美術品を扱っていた」と振り返っている。
1997年、「A Vida em Seus Métodos Diz Calma」がコンピレーション『Blue Brazil 2』に収録され、イギリスのDJたちがデビュー作を再発見した。
1998年には2作目『Distando Estava』を発表。2000年代には自主制作のアルバムを複数出している。
2002年にはCharles Gavin監修のOdeon創立100年記念シリーズでデビュー作が再発され、Gavinは「この盤は本当に素晴らしい」と称えた。その後、ペルナンブーコのジャーナリストがOrkut経由で親族を通じてDi Meloを探し当てたこともあり、復帰は大きく報じられた。
2011年にはドキュメンタリー『Di Melo: O Imorrível』が公開され、グラマード映画祭で編集賞などを受賞した。同年、ブラック・アイド・ピーズの「Don't Stop the Party」のミュージック・ビデオにはデビュー作が映っている。ウィル・アイ・アムは、好きなブラジル音楽としてDi MeloとJorge Ben Jorの名前を挙げている。
その後も活動は続き、『Imorrível』、2019年にはフランスのビッグ・バンドCotoneteとの『Atemporal』を発表している。本人は「歌うことも作曲することも決してやめなかった」「400曲以上ある」と話している。
デビュー作『Di Melo』はオリジナル盤がコレクターズ・アイテムになっていて、2022年にはポッドキャストDiscoteca Básicaの投票で、ブラジル音楽の名盤500枚のひとつに選ばれた。