Vinyl Record Reviews
Johnny Guitar Watson(ジョニー・ギター・ワトソン)は、1935年2月3日にテキサス州ヒューストンで生まれたギタリスト/シンガーだ。ブルースとファンク/ソウルの文脈で語られることが多く、1950年代半ばのエレクトリック・ブルース/R&Bを代表する人物のひとりとして知られている。1996年5月17日、横浜での公演中にステージ上で倒れ、61歳で亡くなった。
幼少期にピアノの基礎を身につけ、のちにギターへ移った。家族の方針もあって、ギターは「ブルースを弾かない」ことを条件に始めたという話が残っている。1950年代に家族でロサンゼルスへ移ると、地元のジャンプ・バンドでギター、ピアノ、ボーカルをこなしながら経験を積んだ。
初録音は1952年のFederal Recordsで、当初は「Young John Watson」名義だった。1954年、映画『Johnny Guitar(邦題: 大砂塵)』にちなみ、芸名をJohnny “Guitar” Watsonに改めた。
1954年のインストゥルメンタル「Space Guitar」は、彼のギター表現をよく示す曲として挙げられる。ピックを使わない独特の奏法が聴ける録音としても知られている。1956年の「Three Hours Past Midnight」も重要で、のちにフランク・ザッパがギタリストを志すきっかけになった曲として語っている。
この時期のワトソンは、Tボーン・ウォーカーやクラレンス・“ゲイトマウス”・ブラウンのエレクトリック・ギターに影響を受けていた。エレクトリック・ブルースの語法を土台にしながら、フレーズの切り方や音の出し方に個性がある。
1960年代には、ラリー・ウィリアムス、リトル・リチャード、ジョニー・オーティスらとツアーやレコーディングを重ねた。さらに、シンセサイザーを使った制作にも関わっている。ブルース・ギタリストという枠だけでなく、R&Bやポップ寄りの現場でも動いていたことがわかる。
フランク・ザッパとはその後も接点があり、1975年の『One Size Fits All』や、1984年の『Them or Us』『Thing-Fish』などで共演している。
1970年代になると、ブルースのショーマン的な立ち位置からファンクへ大きく寄っていく。1976年のアルバム『Ain’t That a Bitch』では、「Superman Lover」「I Need It」などのファンク・ブルース系シングルを発表した。
続く1977年の「A Real Mother for Ya」は、全米ポップ41位、R&B 5位を記録し、彼にとって最大のヒットになった。ここでは、ブルースの感触を残しつつ、リズムの前に出方がかなりはっきりしている。
1980年代は活動が低迷したが、1994年のアルバム『Bow Wow』でグラミー賞にノミネートされ、再び注目を集めた。後年の作品や存在感は、ヒップホップ側にも届いている。ドクター・ドレーやスヌープ・ドッグらが彼の音源をサンプリングしている。
影響を受けた側の証言も多い。スティーヴィー・レイ・ヴォーンとジミー・ヴォーンの兄弟は彼を敬愛していたとされ、エタ・ジェイムスは自分の歌い方を彼に倣ったと語っている。フランク・ザッパは「Three Hours Past Midnight」に触れている。
ワトソンは、エレクトリック・ブルースのギタリストとして出発し、ファンクやディスコの要素も取り込みながら活動を続けた。ギター、歌、作曲、プロデュース的な動きまで含めて、ひとつの型に収まりにくいキャリアを歩んでいる。
1996年5月17日、日本・横浜のライヴハウスOcean Boulevard Blues Cafeでの公演中、演奏中にステージ上で倒れ、そのまま亡くなった。最後までライブの現場に立っていたことも、彼の活動歴をそのまま示している。