Fabrizio De André

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Fabrizio De André

Fabrizio De Andréとは

Fabrizio De André(ファブリツィオ・デ・アンドレ)は、1940年2月18日にイタリア・ジェノヴァのペーリで生まれ、1999年1月11日にミラノで肺がんのため58歳で亡くなったカンタウトーレ(シンガーソングライター)、作曲家、ギタリスト、詩人です。親友で俳優のパオロ・ヴィッラッジョが、彼のお気に入りだったファーバーカステル(Faber-Castell)社の色鉛筆にちなんで名付けた「Faber(ファーベル)」の愛称でも親しまれました。

活動の始まりと「マリネッラの歌」

ジェノヴァ大学で法学を学びながら、フランスのシャンソン作家ジョルジュ・ブラッサンス、ジャック・ブレル、レオ・フェレ、さらにボブ・ディランやレナード・コーエンの影響を受けて曲作りを始めました。1960年にはクレリオ・モンタナーリとの共作「La ballata del Michè」で創作をスタートし、1961年にKarimレーベルから最初のシングル「Nuvole barocche / E fu la notte」を発表しています。

1962年にはエンリカ・“プーニー”・リニョンと結婚し、息子のクリスティアーノ・デ・アンドレ(のちに音楽家)が生まれました。友人であるルイジ・テンコやジーノ・パオーリらの励ましを受け、1963年から1966年にかけてKarimから「La guerra di Piero」「La canzone di Marinella(マリネッラの歌)」「Via del Campo」などを発表し、1966年のファースト・アルバム『Tutto Fabrizio De André』にまとめられています。

当初は大きな商業的成功にはつながらず、父親の法律事務所で働くことも考えていましたが、1967年末にイタリア・ポップス界の女王ミーナ(Mina)が「La canzone di Marinella」をカヴァーして大ヒットしたことで状況が一変し、1968年にはこの曲が広く知られるようになりました。ここから、イタリアを代表するカンタウトーレとしての地位を固めていきます。

社会の周縁に目を向けた作品群

デ・アンドレの作品では、娼婦、犯罪者、薬物依存者、少数民族など、社会の周縁に置かれた人々が繰り返し描かれています。無政府主義者(アナキスト)、平和主義者としての視点もあり、歌詞では当事者の立場に寄り添う書き方が目立ちます。

代表的なコンセプト・アルバムには、1968年の『Tutti morimmo a stento』、1970年の『La buona novella』、1971年の『Non al denaro non all'amore né al cielo』、1973年の『Storia di un impiegato』、1975年にフランチェスコ・デ・グレゴーリと共作した『Volume 8』などがあります。いずれも、単なる楽曲集というより、テーマを通して全体を組み立てた作品として高く評価されています。

  • 『Tutti morimmo a stento』(1968年):フランソワ・ヴィヨンの詩に着想を得て死や疎外を扱う
  • 『La buona novella』(1970年):新約聖書の外典福音書をもとに人間的な革命家としてのイエス像を描く
  • 『Non al denaro non all'amore né al cielo』(1971年):エドガー・リー・マスターズの詩集『スプーン・リバー詩集』を翻案(編曲はニコラ・ピオヴァーニ)
  • 『Storia di un impiegato』(1973年):68年運動の挫折を寓意的に扱う

PFMとの共演とサルデーニャでの経験

1978年から1979年にかけては、イタリアのプログレッシヴ・ロック・バンドPFM(Premiata Forneria Marconi)をバックに迎えた全国ツアーを行いました。1979年と1980年には、その内容を収めた2枚のライヴ・アルバム『Fabrizio De André in concerto - Arrangiamenti PFM』が発表されています。アコースティックな楽曲をシンフォニックなロック・アレンジで再構築した画期的な試みでした。

私生活では1974年から女性歌手のドーリ・ゲッツィと暮らし始め、1977年には娘ルイーザ・ヴィットーリア(Luvi)が生まれました(1989年に結婚)。サルデーニャ島北部ガッルーラ地方のテンピオ・パウザーニア近郊に農園「L'Agnata」を開いて移住したことも知られています。

1979年8月27日夜には、サルデーニャ島の自宅でゲッツィとともに現地の誘拐シンジケート(Anonima sequestri)に拉致され、山岳地帯に約4ヶ月間監禁される事件が起きました。家族による約5億5,000万リラの身代金支払いののち、同年12月21日にゲッツィ、翌22日にデ・アンドレが解放されています。デ・アンドレはのちに実行犯たちの貧困の背景にも理解を示し、この体験は1981年に自らのFadoレーベルから発表した『Fabrizio De André (L'indiano)』収録の「Hotel Supramonte」などにつながりました。

方言、地中海音楽、晩年の作品

1980年代以降は、イタリア標準語だけでなく、故郷ジェノヴァのリグリア語(ジェノヴァ方言)、サルデーニャ北部のガッルーラ方言、ナポリ語なども使って作品を発表しています。

1984年の『Crêuza de mä』は、元PFMのマウロ・パガーニとの共同制作で、全編ジェノヴァ方言によるアルバムです。ウード、ブズーキ、マンドリンなど地中海の民族楽器を取り入れたことで知られ、ヨーロッパにおけるワールドミュージックの先駆的作品として扱われています。海外でもデヴィッド・バーンやピーター・ガブリエルから絶賛され、『Rolling Stone Italia』誌では「イタリア音楽史上最高のアルバム」第2位および1980年代最高のイタリア音楽アルバムに選出されました。

その後も1990年に『Le nuvole』、1996年にイヴァーノ・フォッサーティとの共作による遺作『Anime salve』を発表しています。『Anime salve』は自由や孤独、ロマ(移動民族)や性的マイノリティへの視線を含む作品として知られ、タルガ・テンコ(Targa Tenco)最優秀アルバム賞を受賞しました。

影響と評価

1999年1月の死去時にはジェノヴァでの葬儀に1万人以上が参列し、没後もイタリア各地の学校や広場、文化施設にその名が冠されています。その詩作は現代イタリア文学の教科書にも掲載されるなど、国民的詩人・カンタウトーレとして今なお深く敬愛されています。

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