矢野顕子 - ただいま。 (1981)
矢野顕子『ただいま。』について
矢野顕子の『ただいま。』は、1981年に日本でリリースされた5作目のスタジオ・アルバムである。前作『ごはんができたよ』で見せた、日常の言葉と独自の旋律感覚をさらに押し広げながら、この作品では電子音やリズムの輪郭がよりはっきりしている。歌謡曲の流れに置くには収まりきらない要素を持ちつつ、同時にメロディの覚えやすさも失っていないところが、この時期の矢野顕子らしさとしてよく出ている。
このアルバムの重要な点は、矢野顕子の作家性が、よりはっきりした形で整理されていることだと思う。高い歌唱力だけで押すのではなく、声の質感、ピアノの置き方、言葉の間合いで曲を進めていく作りになっている。聴いていると、歌が前に出る場面と、伴奏のリズムや音色が主導権を取る場面が入れ替わり、その切り替えが速い。ポップソングの体裁を取りながら、演奏の組み立てには実験的な意識がある、という印象が残る。
80年代初頭の空気とつながる作品
1981年という時期は、日本のポップスやロックの中でシンセサイザーや打ち込み的な感覚が広がっていく時期でもある。『ただいま。』は、その流れの中で、矢野顕子自身の個性を保ったまま新しい音の感覚を取り込んだ作品として位置づけられる。坂本龍一が共同プロデュースに関わっていることもあり、音の配置には当時のYMO周辺に通じる都会的な感触がある。とはいえ、単純にテクノポップへ寄せた作品ではなく、矢野顕子の歌とピアノが中心にある点が明確で、そのバランスがこの盤の核になっている。
同時代の日本のポップスと比べると、整ったサウンドの中に遊びやずらしが入る感じが強い。耳に残るフレーズがある一方で、曲の進み方は予想通りにはならない。そうした構成は、のちの矢野顕子作品でも見られる特徴だが、この時期にはその輪郭がかなり見えやすい。
表題曲と収録曲の印象
表題曲「ただいま。」は、糸井重里の詞による楽曲として知られている。矢野顕子と糸井重里の組み合わせは、その後も重要な関係になっていくが、この曲はその出発点のひとつとして見られている。言葉の置き方が説明的すぎず、日常語のまま曲の流れに乗っていくところが特徴的で、タイトルそのものも含めて、帰宅や再会の感触をそのまま音にしたような作りになっている。
収録曲には「春咲小紅」のように、作品外でも広く知られる曲がある。先行シングルとして話題になったこの曲は、化粧品CMで使われたことでも知られ、アルバムの認知を押し上げた代表曲のひとつである。アルバム全体を聴くと、この曲だけが突出しているというより、他の曲と同じ地平に置かれながらも、旋律のわかりやすさと音の切れ味で強く印象を残す。
また、収録曲の並びには、家族や日常を題材にしたもの、子どもの視点を思わせるもの、ユーモラスな言葉運びを持つものが並ぶ。題材は身近でも、作りは単純ではない。ピアノのフレーズが短く区切られたり、リズムが少しずれて聴こえたりすることで、言葉の意味がそのまま流れず、ひっかかりを残す。そのひっかかりが、矢野顕子の作品をただのポップソング集にしない要素になっている。
作品の位置づけ
『ただいま。』は、矢野顕子が1980年代前半の日本ポップスの中で、独自の立ち位置を固めていく過程にある作品として見やすい。デビュー以来のジャズ的な感覚、歌の自由さ、ピアノ主体の構成が、そのまま当時の新しい電子音の感触と結びついている。結果として、いわゆるシンセポップやニューウェイヴの文脈にも接続しながら、矢野顕子固有の作風を崩していない。
このアルバムを聴くと、音の新しさだけでなく、歌詞の距離感や曲の運び方に、のちの矢野顕子作品につながる基礎が見えてくる。坂本龍一との共同作業、糸井重里との結びつき、そしてシングル曲の広がり。そのいずれもが、この時期の矢野顕子を語るうえで重要な要素である。『ただいま。』は、当時の空気を取り込みながら、矢野顕子の輪郭をより明瞭にした一枚として記憶されている。
なお、この作品のオリジナル盤は日本リリースで、当時の盤には封筒カッターが付属する形で入手されたものもあったとされる。レコードとしての細かな仕様も含めて、1981年という時代の空気がそのまま残っている一枚である。
トラックリスト
- A1 ただいま。 4:02
- A2 いつか王子様が 5:05
- A3 Vet 2:33
- A4 Ashkenazy Who? 3:26
- A5 いらないもん 2:43
- Medley 9:33
- B10 I Sing 4:05
- B11 春咲小紅 3:33
- B12 Rose Garden 3:31